160kmピッチャー
今日は、こちらに共感してのエントリー。未読の方はぜひ併せてどうぞ。
「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20071209/1197232409
プロフィールにも書いてあるが、20代の頃、あるいは20世紀、自分はミュージシャンになりたかった。そのために会社を辞めた。
今までも、そしてこれからも、アレほど一つのことに真剣に取り組んだことは無いだろう。
メロディーとコードとリズム。そしてサウンド。あとは・・・詞と歌。
自分が死んだ後も誰かが末永く聴いてくれるような、そんな音楽が作れたら、それは永遠の命を得たのと同じだなぁ、
漠然とそんなことを思っていた…特に死ぬ予定も無かったのだけれど。
プロミュージシャンになる、その目標に向かって歩んでいた。
当時まだ珍しかったMacベースでの音声処理に通じていて、ギターやベースなどの生楽器や、アレンジも作曲も「それなりの」レベルでこなす自分は、手早くデモテープを作るには格好の便利屋として、昼は印刷工、夜は音楽事務所で活動をしていた。朝をスタジオで迎えたことも数知れず。*1
また、プロの作曲家と組んで共作やアレンジをしていた時期もあり、作品がゲーム音楽に採用されたこともあった。
そんな、ささやかな、業界ピラミッドの底辺での音楽活動で見たのは・・・
「自分がプロデュースすれば…」とデビューをチラつかせて、
ボーカル志望の女の子を愛人にする事務所の社長や、
片っ端からネットでメンバー募集して、会った女の子に
プロ作曲家という立場を利用して「自分とユニットを組めば…」と持ちかける作曲家。
そして、それを受け入れる女の子達。
知るかぎりにおいて、その後ヒットはおろかデビューすらできていない子が多いのに…
もちろんそんな人達ばかりじゃない。
質の高い音楽を作る、尊敬できるプロフェッショナルもいた。
ただ、プロに近づくにつれ、わかってきたことがある。
自分にはずば抜けた音楽の才能は無いんだ、ということ。
当時のつかこうへいの連載記事で、うろ覚えだが、こんな内容の回があった。
芸術の分野で「好きなことをやりたい」と言って商業ベースでそれが通用するのは、
野球に例えれば、「ストレートで勝負したい」と言うようなものだ。
160kmの球を投げられる人なら許されるかもしれないが、大抵の人はそうではない。
だから、色んな変化球を覚えて、必要なときに必要な球を投げれるようにするのだ、と。
音楽の仕事も、少しずつだが入ってくるようになっていた。
もしかしたら音楽でメシが食えるかもしれない、そう思い始めた。
ただし、そこでの音楽というのは、当たり前だが人が求めている音楽だ。
クライアントのニーズに合わせて、自分の技術や知識や経験からサービスや成果物を提供して、その対価をもらう。
これって・・・普通のビジネスと何ら変わらない構造だ、ということにその時やっと気づいた。
今の仕事とだって、「ミュージシャンになる」ために辞めた仕事とでさえ、何も変わらない。
好きな音楽だから、音楽は芸術だから、そんな気持ちから「音楽の仕事」、は特別な仕事だと勝手に思い込んでいた。
けれど、「自分の音楽」がそのまま世に認められる、というような160kmピッチャーじゃない限り、それは全く特別な仕事じゃなかった。
むしろ、自身の作り出す音楽に何の興味もこだわりも持っていない、ただの商品や作業だと割り切っている人達の方がプロとして結果を出せていた。当然だ。彼らは、クライアントのニーズに応えることができる「プロ」なのだから。
「音楽に関わる仕事につけるだけでいい。他には何もいらない。」
そんな気持ちで音楽に没頭するほどには、自分は音楽のことが好きじゃなかったのだろう。
好きを貫けば、その先に求める世界があったのかもしれないし、無かったのかもしれない。
あと何センチか先に油田があったのかどうか、は今となってはわからない。
いずれにせよ、そこで音楽中心の生活から足を洗った。*2
好きを貫く、からひとまず自由になった。
当時の年収は200万円台。
そこからの再スタートは、一つのことに縛られないためにどうしたらよいのか、
どうやったらもっと自由に近づけるのか、の旅路のようなもの。
寄り道して人から遅れている分、「選択」と「集中」は考えなかった。
まだまだ不自由なところもあるが、再スタートのわりにはオプションも増えて、少しは自由になってきた。
そろそろ、もう一度音楽を作ってみたい。
何しろやるのは自由なんだから。もちろん、やらないのも…